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東京都立国立高校野球部の歴史

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国立高校野球部の歴史

昭和23年11月

東京都立国立高等学校は1940年(昭和15年)に旧制中学校の東京府立第十九中学校として開校したが、野球部の創部はそこから7年後の1947年(昭和22年)。創部の年はまだ旧制で、体育科の益永高義先生のご尽力により硬式野球部が誕生、益永先生が初代監督となった。

記念すべき初陣は1947年(昭和22年)夏の大会。都機工との戦いは2-8で敗れた。翌年1948年(昭和23年)夏の大会で都十三(現都豊多摩)に14-4で勝ったのが初勝利。

創部3年目の1949年(昭和24年)に国高野球部は大躍進する。第4代監督で後のOB会長の市川忠男をエースとし、1回戦の足立を6-2で下した後2回戦から4回戦を勝ち抜きベスト8(当然ながら当時の東京は西・東には分かれていない)、準々決勝の立教戦も6-5でクリアし、ここでベスト4となった。準決勝は都八(現都小山台)も5-6で惜敗し、都立高初の甲子園出場は約30年後まで待つこととなったのである。

このベスト4という記録は1980年(昭和55年)に甲子園出場するまで長らく国高野球部の記録であった。

この時代は高野連の主催する都大会以外にも一部エリアで行われる大会もあり、1948年(昭和23年)の秋には三多摩大会優勝の記録も残っている。

また、福生市営野球場を記念して福生町が主催する都下高校野球大会(青龍旗大会)が1949年(昭和24年)に創設され、第1回大会は立川を破った国高が優勝。以後1955年(昭和30年)まで開催された青龍旗大会では、第2回、第6回、第7回に優勝、第3回も準優勝と都下では圧倒的な実力を誇っていた。ちなみに最後となった第7回大会に優勝したので、青龍旗は国高に今も保存されている。

夏の大会も1953年(昭和28年)、1954年(昭和29年)、1955年(昭和30年)と3年連続で4回戦に進出、日大二・日大三の日大勢に敗れるも3年連続ベスト16の成績を収めた。

その後なかなか勝ちが続かない時代が続いたが、1963年(昭和38年)~1964年(昭和39年)には二代目監督として吉田雅彦が指揮をとり、強豪の仲間に入っていこうとする国高野球部の礎を築いた。

吉田監督の教え子であった宮本悠二が学生監督として1965年(昭和40年)~1968年(昭和43年)まで4年間指揮をとった。この時代は5回戦まで勝ち進んだ1966年(昭和41年)など夏も秋もいい成績を収めた年が多かった。

1969年(昭和44年)からは、ベスト4の時のエースであり、以後1991年(平成3年)まで23年の長きに渡って指揮をとることになる市川忠男が第四代監督に就任する。

後に東大に進学し東京六大学で首位打者を獲得する遠藤昭夫など粒揃いのメンバーが集まった1969年(昭和44年)の秋はブロック決勝まで進み、翌1970年(昭和45年)の夏は国高野球部初のシード校にもなった。

1970年(昭和45年)と1974年(昭和49年)の秋はブロック大会を勝ち進み、都大会本戦の1回戦も勝ち惜しくも準々決勝で敗れたが、ともに全都でベスト8となり、春のセンバツに最も近づいたシーズンであった。

確かな記録はないもののOB会がスタートしたのはこのころ(1970年代前半:昭和40年代後半)。初代OB会長は野球部1期生の菅屋忠正。

女子マネージャーが誕生したのもこの時代。第1号は1973年(昭和48年)卒の横井佳子(旧姓)。以降はほぼ毎年女子マネが入部し、練習試合の交渉から選手の体調管理、スコアブック記録、そしてボール修理まで幅広く選手を支え続けている。

市川監督時代の昭和40年代後半から昭和50年代中盤までは、市川監督の二期後輩で国高卒業後に大学や社会人野球で活躍した羽村幸男がコーチとして市川監督を補佐した。羽村コーチの猛ノックに鍛えられた世代はこの後もいい成績を残していく。

1974年(昭和49年)東京都代表が東西二代表となる。

1975年(昭和50年)の夏もシード校となり、3回戦、4回戦を勝ち抜き、準々決勝の桐朋戦で惜しくも2-4で敗れるも、前年秋に続きベスト8の成績をおさめた。当時4番を打っていた下嶋忍外野手は卒業後東大に進み、現在でも東大野球部の記録である東京六大学野球リーグ戦通算6本塁打を打った。

1977年(昭和52年)の夏は、好投手小野有三を擁して5回戦まで進みベスト16の成績を残した。

そして1980年(昭和55年)の夏の大会を迎える。前年秋にはブロック決勝まで進出するも大会前の下馬評は決して高いものではなかったが、一部では評判であった好投手市川武史を擁し、1回戦から3回戦までを辛勝ながら勝ち抜き、4回戦はベスト8を懸けてシード校の錦城と対戦。4-0で勝利すると続く準々決勝の相手は佼成学園。0-0で延長18回でも勝負がつかず、翌日の再試合を6-3で勝利し、当時の市川忠男監督の現役時代から31年ぶりのベスト4に進出。準決勝は堀越を破り、駒大高と甲子園初出場をかけて決勝戦に臨んだ。ここまでエースの市川は延長18回引き分け試合を含め72イニングを一人で投げていたが、この年は記録的な冷夏であり、また西東京でベスト4に残ったチームは全てノーシード高であったことも国高には追い風になった。決勝は9回まで0-0の投手戦で、9回表1死2・3塁のチャンスに市川武史のスクイズと西尾1塁手の適時3塁打で2点を先取、そのまま裏の攻撃を3人で終え、東京の都立高として初めて甲子園出場を獲得した。表彰式で優勝旗を渡すプレゼンターは、当時の東京都高野連会長で2年前まで国立高校の校長であった岡本武男氏であったことも小説のような美談として取り上げられた。

甲子園出場号外

第62回全国高等学校野球選手権大会(甲子園大会)での組み合わせは、初日の第3試合で相手は前年の春夏連続優勝・和歌山県代表箕島高校。5回までは0-0と善戦したものの、0-5で敗れた。有数の進学校でありまた私立優位の東京での都立高初の甲子園ということで「さわやか国立旋風!」と大きく騒がれた夏が終わった。

国高甲子園入場行進

 

1980年(昭和55年)は新チームになっても快進撃が続き、秋のブロック大会は4勝で優勝、神宮第二で行われた本戦1回戦で中大付に3-8で敗れるも、全都でベスト16。翌1981年(昭和56年)の夏も強豪の東亜学園や駒大高を破り、4回戦で日本学園に3-5で惜敗するも、秋夏ともにベスト16の成績であった。

さらに翌1982年(昭和57年)の夏も宇野・川辺のバッテリーを中心に1回戦から4回戦を勝ち抜き、準々決勝で堀越に3-4で惜敗したが、ベスト8まで進出した。

1984年(昭和59年)の夏も戦力が充実しており、5回戦で関東高に6-8で敗れるも、ベスト16の成績を残した。

★1987年(昭和62年)国高野球部創部40周年記念パーティーを立川グランドホテルにて開催。

長らく監督であった市川忠男が1991年(平成3年)を最後に勇退しOB会長に就任。第5代監督として徳地和穂が就任した。国高野球部OBではない初の監督で、以降は現在まで教員の監督に指揮を委ねている。

徳地監督就任4年目の1995年(平成7年)の夏は5回戦で都四商に2-10に敗れるまで4勝しベスト16。2年後の1997年(平成9年)の夏も3勝し5回戦で創価に4-7で敗れるもベスト16と好成績が続いた。

★1997年(平成9年)国高野球部創部50周年記念パーティーを立川グランドホテルにて開催。

2000年(平成12年)の春は、3勝した後4回戦で駒場学園に3-5で敗れるも、国高野球部としては初の春ベスト16でシード校入りを果たす。期待された夏の大会は初戦の3回戦でノーシードからの勝ち上がりであった日大三に押し気味に試合を進めるも、7-8で惜敗した。

10年間指揮を執った徳地監督から2001年(平成13年)秋より第6代監督として秋森仁志にバトンタッチされた。

2001年(平成13年)の秋は、3勝した後ブロック決勝で実践学園を4-1で破り本選出場。本戦1回戦で国学院久我山に1-5で敗れたが、全都でのベスト16の成績を残した。このチームは翌2002年(平成14年)の春も4回戦まで進みシード校となったが、夏は2戦目の4回戦で早大学園に敗れた。

秋森監督の3年目となる2004年(平成16年)の夏も大いに盛り上がった。谷田部主将を中心にまとまったチームは初戦の2回戦秋留台戦を30-0のコールドで勝利すると勢いに乗って、調布北、創価を退けベスト8をかけて法政一高との5回戦に臨んだ。9回裏まで1-2の劣勢も2死からの逆転サヨナラ勝ちでベスト8。準々決勝の相手は神宮球場にて強豪の日大鶴ヶ丘。これまた終盤まで劣勢も9回表に一挙逆転、5-2で勝利し、国高史上3度目のベスト4に進出した。「24年ぶりの甲子園か!」とメディアも大きく取り上げたが、準決勝で新興勢力の穎明館に1-10で敗れて夢が散った。

★2007年(平成19年)国高野球部創部60周年記念パーティーを立川グランドホテルにて開催。

2008年(平成20年)からは秋森監督に代わり、第7代監督として佐藤賢司が就任した。

就任直後の2008年(平成20年)秋、ブロック決勝で明中八王子を10-7で破り、本戦に進出。本戦1回戦は明大中野戦で3-5で敗れたが、全都でベスト16の実績をあげた。

2010年(平成22年)秋もブロック決勝で松が谷を3-2で退け、本戦1回戦は大泉に8-1で勝利。本戦2回戦で昭和に1-2で敗れるも、全都でベスト16となった。

同チームで翌2011年(平成23年)春も1回戦2回戦を突破し、3回戦で日大三に2-12で敗れるも、秋・春連続でベスト16と優秀な成績を残した。

2013年(平成25年)には佐藤監督に代わり、第8代監督として池田典生が就任した。池田監督時代の野球部長は次期監督となる福谷真一であった。

2015年(平成27年)秋より池田監督に代わり、第9代監督として福谷真一が就任した。

2016年(平成28年)からは学生OBとして平成27年卒の佐々木諒人がコーチとして福谷監督を補佐した。

★2017年(平成29年)国高野球部創部70周年記念パーティーを立川グランドホテルにて開催。

2018年(平成30年)の夏は、久しぶりに1回戦・2回戦を連続コールドで勝ち上がり、4回戦まで駒を進めた。

(2018年夏 啓明学園戦 多摩一本杉球場)

国高野球部

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