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近藤三千哉さん(S51卒)

「羽村さんとの思い出」
昭和51年卒 近藤三千哉

先週羽村さんが亡くなられたと同期から連絡があり、しばし茫然自失の心境に陥りました。現役時代にご指導いただいた世代の野球部OBにとって、市川監督とならぶ恩人であり、敬愛すべき大先輩でした。歳を重ねられてからもずっとお元気で、同期の新年会にお招きしたり、OB総会でお目にかかったり、毎年楽しく交流させていただいていただけに、お会いできなくなってしまい、本当に寂しいかぎりです。
心からご冥福をお祈りするとともに、昭和55年の甲子園出場にも多大な貢献をされた羽村さんとの四十数年に亘る思い出を、私の記憶をたよりに綴ってみたいと思います。このHPで、あまり長い文章はどうかとも思いましたが、いろいろ思い出すうちにどうしても簡潔には綴れなくなり長文と化してしまいました。ご容赦ください。

1. 羽村さんと出会った野球部現役時代の思い出

~コーチ・羽村さんのスタート~

私たちの代が1年生の昭和48年夏休み、新チームが始動した直後から羽村さんが週に2-3回グラウンドに来られ、指導していただくようになりました。もう47年も前のことです。家業と監督業の両立で、グラウンドに常に立つことがままならない市川監督からのご依頼で、野球部のご指導をお手伝いいただくことになったと聞いています。
当時新チームは、2年生の先輩4名に私たち1年生8人の計12名という小世帯。
自分以外の同期7名はいずれも体も大きく、中学で4番、エース、主将、あるいは名門リトル・シニアで活躍して海外遠征も経験した野球センスの塊、など錚々たるメンバーで、皆入学直後から練習試合に出て経験を積んでいました。
市川監督は、『当時、国高で初めて甲子園を狙えるチームを作れると思った』、と述懐されるのを後々何度か聞きましたが、そうした期待も込めて、羽村さんにチーム力強化への支援を依頼されたのだろう、と推測しています。

~私にとっての羽村さん~

そんな同期の中で、私だけは中学で野球どころかまともな運動経験もなく、小柄でひ弱な存在でした。国高3年間の担任・尾又先生(後に野球部長として甲子園出場)の、入学式直後の一声「この学校では、勉強だけしていてはだめ、人間形成の大事な時期、スポーツと勉強の両立は当たり前」という言葉に、自分を鍛えようと一念発起、野球は小学校時に遊びでやった、スポーツ万能の父親譲りで肩だけは結構強い、ということだけを頼りに、野球部の門をたたきました。
同期唯一の左投左打という存在でしたが、体力も技術も、野球の試合の中で必要な攻守の基本的知識など「野球の常識」もほぼ皆無。
それでも新チーム始動後は外野手としてセンターで試合に出る機会をいただくようになりましたが、体力・技術とも不足の私は、夏の猛練習・富浦合宿など正直ついて行くのが大変でした。そんな私に、羽村さんは打撃・守備・走塁をはじめ、ありとあらゆる野球の基本・常識を根気強くご指導いただきました。野球を一から教えていただいた先生と言うべき方でした。

~富浦での初合宿~

羽村コーチのご指導が始まって最初の富浦への遠征合宿、地元校との試合は、私が満塁で飛んできたセンター前ヒットをトンネルしたり、ガラの悪い対戦校の圧力に怖じ気づくなどで2試合惨敗、市川監督が「オレはもう監督を辞める」と怒ってナインより先に帰京してしまうなど、散々な合宿でした。そんな中で鮮明に覚えているのは、富浦の寮の中庭での夜の素振り。ミート・ポイント近くに火の付いたロウソクを立て、素振りのスイングの風でその火を消してみろ、と羽村さんに促され、やってはみたもののなかなかできず必死でバットを振り続けた一時のことです。
その甲斐あって、翌日の遠征初戦、私にとっての高校初ヒットを含め、2安打に繋がりましたが、試合は小生のタイムリー・トンネルなどで惨敗。寮へ帰ってから富浦の砂浜で、足腰立たなくなるまでランニングやダッシュの罰トレーニング、羽村さんが鬼に見えた一時でした。

~指導者としての羽村さん~

国高卒業後、東都大学野球から社会人で捕手として活躍された華麗な球歴をお持ちの羽村さんですが、グラウンドでの指導者・羽村さんは滅多に怒らず、(時に今だと「放送禁止用語」になりかねないような)ユーモラスなかけ声(※)も交えてノックをされ、受ける方にとっても、キツくても何となく気持ちにゆとりを持ち、考えながら練習に取り組める指導者でした。(※~投手フィルディングの練習に臨むピッチャーは「ポチ」、腰高の動きでトンネルする野手には「この三助!」、外野フライを正面向いたまま後退して追いかけると「○○バック!」、外野手からのバックホーム送球が自分の方へ逸れると「こら、狙ったな!」等々。)
羽村さんのノックの打球はとにかく強烈で、怖かったのを覚えています。市川監督のノックが、外野手にとっては前後・左右捕れるか捕れないかギリギリに来る絶妙の打球コントロールだったのと好対照でした。センターだった私は、左中間に放たれた強烈な打球に追いつけず、当時の国高グラウンドのいちばん隅のほうまで転がっていくボールを泣きたい気持ちで追いかけていったり、ラグビー、サッカーと共用のボコボコのグラウンドで不規則に跳ねる打球を体で止めに行こうとしてあちこちに当て、痛い思いをしたり、という苦労もありましたが、とにかく羽村さんのノックのおかげで、私たちはじめお世話になった代々の野手陣の守備力が相当鍛えられたのは間違いありません。また、数々のアドバイスで私たちの「インサイドワーク」も鍛えられました。
甲子園に出た皆さんの前年夏休みの練習も熾烈を極めた、とエースだった市川武史君が述懐されていますが、投手力とともにあの快挙の一番の要素となった強固な守備力も、羽村さんの猛ノックによる鍛錬の賜物であることは間違いありません。

~名捕手・羽村さんにブルペンで~

私は、2年の8月、新チームから市川監督の指示で控えの投手を務めることとなり、背番号10をいただきました。当時の一年生が相次いで退部して2名だけとなり、試合となると守備中ベンチに残るのは控え投手の私一人だけ。出番に備えてブルペンで投球練習しようにも受けてくれる捕手がいなくなってしまいました。
2年の秋から3年の春、新1年生の入部まで半年間、私はなんと、大学・社会人でもならした名捕手の羽村さんに試合中のブルペンでの投球練習を受けていただくという光栄に浴したのです。球速はなく、(市川監督直伝の)左腕から大きく曲がり落ちるカーブとのスピード差を武器としていましたが、その球を何度も褒めて自信をつけていただいたのも忘れられない思い出です。

~羽村さんに怒られたこと~

高校現役中、私は羽村さんを怖いと思った記憶はほとんどないのですが、一回だけ厳しく叱責されたことがありました。3年の5月頃、日曜日の練習試合、相手は当時都立では強豪の戸山高校、その試合は市川監督が所用でグランドに来られず、羽村コーチが指揮を執られました。
3イニング程度のショートリリーフがメインの投手だった私に、前日市川監督から「明日はおまえが先発、一試合投げきってみろ」と予告され、前夜から極度の緊張のまま、先発のマウンドに立ちました。
試合結果は当方の強打炸裂で15-4くらいで大勝。ただし先発の小生はといえば、初完投するにはしたのですが、緊張からかストライクが入らず、投球数約200、被安打は数本ながら与四死球16、奪三振12、という完全な独り相撲の内容。
どうやって4失点に抑えたのかも覚えていませんが、相手の残塁数はすごい数字だったと思います。投げ続けた私もヘロヘロ、バックの野手からもブーイングの嵐、試合中からベンチで羽村さんが怒っていることは飛んでくる声からも感じていましたが、試合後に「何人で野球やってると思ってるんだ!このバカ者!」とマジに怒鳴られました。あれだけ怒った羽村さんはその後も見たことがありません。

~相手チームのヤジに・・・~

選手に対して怒ることは滅多にない羽村さんでしたが、人一倍の負けず嫌い・後輩思いのため、時に試合相手のベンチから当方の選手に向けられたヤジに憤慨して、まともに言い返す、といったハラハラするようなシーンもありました。羽村さんのお人柄を表すシーンでした。

~3年夏、引退した日の夜~

昭和50年、3年夏の西東京大会、準々決勝で桐朋にまさかの逆転負けした夜、主将・若林君の家に泊まって同期8人なんとなく残念会をしていたところへ、羽村さんから捕手を務めた若林君に電話があり「俺が口を利いてやるから是非自分の母校へ進んで大学野球を続けろ」といわれました。おそらくご自宅でお一人、悔しいお酒を飲んでおられたようです。ほかのメンバーにも、大学行っても十分通用するから野球を続けてくれ、と言う声かけをいただきました。

2.甲子園出場の快挙と羽村さんの貢献、甲子園でのノック

~市川監督・羽村コーチの名コンビのご指導でどんどん実力をつけた野球部~

私たちの代が卒業した後も、羽村さんはサラリーマンであるご自身のお仕事やご家庭をも犠牲にするくらい精力的に、グラウンドにきてノックバットを振るわれました。母校の野球部や後輩に対する強い愛情ゆえの、献身的なご指導を受けた私たちは本当にありがたく思っていますが、ご家族には相当なご負担をおかけしたことと今も心苦しく思っています。
私は、ひ弱だった自分を鍛えていただいた国高野球部、市川監督、羽村さんへの恩返しと肝に銘じて、卒業してからも、浪人中から打撃投手など練習のお手伝いにできるだけグラウンドに顔を出すようにしていました。
大学2年で準硬式野球を辞め3年次からは、国高から車で20分の近さもあり、国家試験の勉強の傍ら練習のお手伝いに参じる頻度が増え、打撃投手だけでなく、時々監督や羽村さんの補助でノックもさせていただくようになっていました。甲子園出場の前年のことです。
その当時の国高野球部は、市川監督が試合運びや精神面の鍛錬と投手指導、羽村コーチが打撃・守備・走塁などの細かな技術指導や冬期の科学的トレーニングの指導、という絶妙の名コンビ指導者に恵まれ、加えて野球部長となられた尾又先生もユニフォームを着てグランドに立ち、打撃投手やノックなど熱心にサポートされ、充実した指導体制だったと思います。
その頃から部員数も増えはじめ、選手層も厚くなって、チーム力が充実してきていることをお手伝いに通う私も実感していました。
翌昭和55年、甲子園出場の年の4月、春季都大会で投法を変えて覚醒したエース市川君の快投により当時の都立の星・東大和を完全に封じ込めた試合、現地で見て夏への期待を大いに膨らませたものでした。

~突然の羽村コーチご退任~

ちょうどその少し前のことです。正確には思い出せませんが3月半ばごろ、市川監督から私にお電話があり、「ちょっと事情があって羽村(さん)が練習に来られなくなった。近藤は勉強も忙しいだろうけど、週に何回か練習見に来てくれないか。」と打診がありました。
何があったか詳細な事情は伺えませんでしたが、市川さんのたってのご依頼、私は国家試験前の佳境ながら、勉強の合間を見て市川さんがグラウンドに出られない日に週2、3回はグラウンドに通い、羽村さんの代役のような位置づけでノッカーを務めるようになりました。国家試験前の6月上旬頃まで続けました。
いずれまた、羽村さんがコーチに復帰されるだろうと思いながら代役を務めていたのですが、結局その後も羽村さんは復帰されないまま、夏の西東京大会を迎えました。
市川さん、羽村さんともに故人となられたので歴史の話として、私がいろんな方々から聞いた限りの当時の経緯に触れますと、多くの方がご存じの通りお二人ともそれぞれ真面目で真っ直ぐで頑固なお人柄、その年の春先の練習の内容かスケジュール調整か何かでお二人の間で誤解による行き違いが起こり、そういうことになってしまった、ということのようです。(不正確でしたらどなたかご指摘いただければ幸いです。)

~歓喜の決勝戦の帰路、千駄ヶ谷駅のホームで~

そして7月の西東京大会、国高は快進撃を続け、見事甲子園出場を決めたわけですが、決勝の駒大高戦、大応援団で勝利の感激に震えた神宮球場の帰路、同期の仲間と一緒に大混雑の千駄ヶ谷駅のホームに上がったところで、羽村さんにバッタリ遭遇しました。
お一人でひっそりと応援に来られていたようですが、我々とがっちり握手をしてくださった時の本当に嬉しそうな表情は忘れられません。「甲子園に行けるのも羽村さんのノックのおかげです」と皆で感謝をお伝えすることができました。あの日、あの場所でお会いできて本当によかった。

~コーチとして帯同、甲子園でのノック、帰京後の羽村さんへの思い~

決勝戦から何日か経ち選手諸君が甲子園入りした直後、同窓会の大先輩のご自宅で、応援バスの手配などのお手伝いをしていたところへ、市川監督から「チームに帯同のコーチ1名登録できることがわかった」と連絡がありました。その大先輩と市川監督間で人選相談の末、その場にいて、春先から羽村さんご不在の中、練習でノッカーを務めることが増えていた私に声がかかり、急遽荷物をまとめ、翌日甲子園入りしてチームと合流となりました。
開幕前の1校30分の甲子園練習、対箕島戦の試合前のシートノック時間の前半、外野手を一カ所に集めてのノック、と2回も憧れの甲子園球場の土を踏みしめてノックバットを振らせていただくと言う、思ってもみなかった、天にも昇るような栄誉にこの私が浴することができました。
しかし私は、甲子園から帰って落ち着いてから、この甲子園帯同コーチの役目は、甲子園でのノックは、本当は羽村さんが務めるはずだった、務めてほしかった、と言う思いが、心の中にずっと残ったままになりました。
甲子園を決めた国高チームの堅い守備力は、連日の猛ノックをはじめ、市川監督とわずか数ヶ月前まで名コンビでご指導に尽力された羽村さんの力があって培われたことは、上記のような経緯から誰もが認めるところと思います。

~時を経て復活した羽村さんとの交流~

その後羽村さんとは、お会いできる機会もなく、市川名誉会長とも交流されてなかったようですが、20年くらい前からですか、6月のOB戦に出てこられ、マウンドに立った私に痛烈なピッチャー返しのヒットを見舞われ、毎年1月同期を中心に市川さんを囲んでの定例の新年会に羽村さんにも出席していただけるようになり、市川さんご逝去の年までは毎年お目にかかっては3年最後の桐朋戦の話、老人野球でずっと活躍されていた話などしながら楽しい一時をご一緒しました。

そうした楽しい交流が復活してからも、実のところ私の心の中には上記の思いがずっと残り、かつそれを羽村さんにはずっとお伝えできないまま、今お別れすることになってしまいました。
お伝えした方がよかったのか、お伝えしないままでよかったのか、未だに答えが見つからないのですが、コロナ騒動が落ち着いたらお墓参りをしてお礼を申し上げつつ、私の思いをお伝えしたいと思っています。

合掌

お問い合わせはメールにてお願いします。

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