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代表寄稿(S41卒 櫻井さん)

◆野球部活動のスタート

私の国高野球部の活動は、私が三鷹市立第二中学校を卒業した昭和38年の春休みから始まりました。二中の4年先輩である楯俊介さんが、陸王という大きなオートバイに跨って、いきなり我が家まで迎えに来たのです。「おい、練習に行くから後ろに乗れよ」と、有無を言わさず乗せられて、何か誘拐にあったような感じで国高のグラウンドに立っていました。この後、数日間練習に通ったように思います。
その数か月前のことですが、私たちの国高の合格発表の日は、確か大雪だったと記憶しています。水滴で窓ガラスが曇り、中が良く見えない窓越しに、自分の番号がチラッと見えたのを確認し、急いで帰ったのを覚えています。そしてその時の天候とは対照的に、入学式は良い天気で、温かい日差しの中、満開の桜の花びらが真っ黒いグラウンドの土に花吹雪となって舞い散っていました。こんなに美しいところでしかも憧れていた硬式ボールで野球ができることは幸せなことでした。しかし、この黒い土にはこの後雨の日には大変悩まされることになるのですが・・・。高校在学中の部活動選択に悩む人は多いと思いますが、私の場合はその余地はありませんでした。

◆野球=練習

4月になって、正式な野球部員となり何が楽しみだったかと言うと、それは練習です。打球の速さや弾み方、飛距離などが中学校の時とは全然違います。私は身長が低く、筋力もさほど無く、体力的な条件に恵まれていなかったので、努力して何かで優れた面を持たなければ勝負できないと考えました。しかし、幸か不幸か他の部員よりも少しだけ野球の経験値があるということで、一年生の時から内野手としてのポジションを与えられてしまいました。以後3年間いわゆる甲子園を目指しての野球部活動だったはずですが、不思議なほど甲子園出場は意識していませんでした。3年間の夏の大会の結果は、昭和38年昭和6対3国高、39年聖橋8対5国高、40年攻玉社6対1国高と、全て一回戦負けでした。
私が二年の時の昭和39年の大会では、現在橘球会の会長である宮本悠二先輩がエースで、早大の安部球場で戦い、良い試合ではあったのですが、残念ながら結果が出せませんでした。私が三年生の時、主将としての最後の大会は、立教大学のグラウンドで戦いましたが、途中の降雨で試合の流れが変わり、この時も勝利をつかめませんでした。
今思うのは、私にとっての国高での野球部活動とは、とにかく休みなく練習を続けることだったように思います。最後の一年間は、正月の三日間しか休まなかったという程の部活動でした。

◆国高を出てからの野球

東京教育大学の野球部には、1年間陸上競技部(長距離グループに所属)に寄り道をしてから入部しました。昭和43年の首都大学野球春のリーグ戦で一部の最下位となり、帝京大学との入れ替え戦に敗れ、入部していきなり二部に落ちるという悔しさを味わいました。私はその後聾学校の教員となり、勤めていた期間のほとんどで野球部の顧問を務めました。当然、国高時代の習性が残り、練習の大好きな顧問だったことは言うまでもありません。

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